2014年11月17日月曜日

26. 石の巻(五月十二日)

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【現代読み】
十二日 平和泉(ひらいずみ)と心ざし、 
姉歯(あねは)の松、 緒絶(おだ)えの橋など、 聞き伝えて、 
人跡(じんせき)(まれ)に 雉兎蒭蕘(ちと・すうじょう)の往(ゆき)かう道 
そことも分(わ)かず、 終(つい)に路(みち)踏みたがえて、
石の巻という 湊(みなと)に出(い)づ。
 
「こがね花咲く」 と詠(よ)みて奉(たてまつ)りたる 金華山(きんかざん)、 
海上に見わたし、 数百の廻船(かいせん)入江につどい、 
人家(じんか) 地をあらそいて 竃(かまど)の煙 立ち続けたり。 
思いがけず 斯(かか)る所にも来(きた)れる哉(かな)と、 
宿借らんとすれど、 更に宿貸す人なし。
 
(ようよ)う まどしき小家(こいえ)に一夜を明かして、 
明くれば又 知らぬ道迷い行く。 
(そで)の渡り、 尾ぶちの牧(まき)、 真野(まの)の萱原(かやはら)など、 
よそ目に見て、 遥かなる堤(つつみ)を行く。 
心細き長沼に沿うて 戸伊摩(といま)と云う所に一宿して、 
平泉に到る。 その間(かん)廿(二十)余里ほどと おぼゆ。

【語句】
雉兎蒭蕘(ちと・すうじょう): 「雉兎(ちと)」は「雉(キジ)」と「兎(ウサギ)」、「蒭蕘(すうじょう)」は「蒭(まぐさ)」と「柴(しば)」のこと。 (「蒭」は「芻」の俗字)

この難解な言葉は孟子・巻之一「梁惠王章句下2」に出てくるので、蛇足ながら引用しておくと、
『齊宣王問曰、文王之囿、方七十里、有諸』
斉の宣王が(孟子に)質問して、「(周の)文王の囿(ゆう:御苑)は七十里四方もあったというのは本当でしょうか」

『孟子對曰、於傳有之』 (中略) 『民猶以爲小也』
孟子がそれに対し、「本当であったと伝えられています」 (ただ) 「民衆はそれでもまだ小さいと考えていました」

『寡人之囿、方四十里、民猶以爲大、何也』
王: 「(それに比べ)私の囿(ゆう)は四十里四方なのに、民衆がそれを大きいと言っているのはなぜでしょう」

『文王之囿、方七十里、芻蕘者往焉、雉兔者往焉、與民同之、民以爲小、不亦宜乎』
孟子: 「文王の囿(ゆう)は七十里四方あったと言っても、牧草や柴を刈る者、鳥獣を狩る者たちもそこを往き来し、民とその御苑を分かち合っていた訳で、民衆がそれを小さいと考えたのは、もっともなことでしょう」
―ということで、「蒭蕘、雉兎の往き来う」の「」を略しているから、意味の分からない文章になっている。

「こがね花咲く」と詠めり: 
「天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄えむと 東(あづま)なる 陸奥(みちのく)山に 金(くがね)花咲く」 大伴家持(おおとものやかもち) 万葉集・巻十八 (4097)

宿借らんとすれど、更に宿貸す人なし: かなり冷たい町という印象を受けるが、「曾良旅日記」によると、
 『小野と石ノ巻の間、矢本新田と云う町にて喉乾き、家毎に湯を乞へ共与ず。 刀さしたる通行人、年五十六・七、この躰(てい)を憐みて、知人の方へ壱町(110m.)程立ち帰り、同道して湯を与う可き由を頼む。又、石の巻にて新田町、四兵衛へと尋ね、宿借る可き之由云て去る。名を問、根古(ねこ)村、こんの源左衛門殿。教えの如く、四兵衛を尋て宿す。着の後、小雨す。頓(やが)て止む。』―とあり、石の巻にも親切な人たちのいたことが分かる。

まどしき小家(こいえ): 「貧(まど)し」(古語:貧しい)―というのは、一晩泊めてくれた四兵衛さんの家でしょう。



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