2014年11月9日日曜日

34. 最上川(六月一日)

原文 (クリックで拡大)


原文を行書体で書き写したもの (クリックで拡大)


楷書体・振り仮名付き (クリックで拡大)

【現代読み】
最上川(もがみがわ)は陸奥(みちのく)より出(い)でて、 山形を水上(みなかみ)とす。
碁点(ごてん) (はやぶさ)など云う 恐ろしき難所(なんしょ)有り。
板敷山(いたじきやま)の北を流れて、 果ては酒田(さかた)の海に入(い)る。
左右 山覆(やまおお)い、 茂みの中に舟を下(くだ)す。
(これ)に稲(いね)積みたるをや、 稲船(いなぶね)というならし。
白糸の瀧は 青葉の隙々(ひまひま)に落ちて、
仙人堂(せんにんどう)、 岸に臨(のぞ)みて立つ。
水みなぎって 舟危(ふねあや)うし。

 五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川

【語句】
最上川: (前出)
碁点・隼: 最上川の難所で、大石田より少し上流にある。
稲船(いなふね): 舟運(しゅううん)で米俵を運んだもので、馬車よりも多くの量を運べた。 「古今和歌集」にも出てくる(前出)。
「最上川 のぼればくだる 稲舟(いなぶね)の いなにはあらず この月ばかり」(東歌・陸奥歌)

白糸の瀧: 最上四十八瀧の中で最も有名で高さ220m.、歌枕にもなっている。
 「最上川 落ちまふ瀧の白糸は 山のまゆより くるにぞ有りける」(源重之)
仙人堂: 源義経の臣、常陸坊海尊を祀る。 海尊は仙術を会得して長生きしたと伝えられる。場所的には、白糸の瀧より少し上流にある。 
五月雨を あつめて早し: 大石田・高野平衛門(一栄)亭で詠んだ句は、「五月雨を あつめて涼し」―であった。 実際に船で急流を下った後には、このように変えられている。

「曾良旅日記」によると一日に大石田を船で発ってその日は新庄に泊り、翌日は歌仙があって一泊、三日に船を乗りついで白糸の瀧・仙人堂を経て羽黒に至っている。
六月朔日: 大石田を立つ。辰の刻、一栄・川水、弥陀堂迄送る。馬弐疋、舟形迄送る。二里。一里半、舟形。大石田より出手形を取る、名木沢に納め通る。新庄より出る時は新庄にて取りて、舟形にて納め通る。両所共に入るには構わ不(ず)。二里八丁 新庄、風流(富豪・渋谷甚兵衛)に宿す。
二日: 昼過ぎより九郎兵衛(渋谷氏。俳号:盛信。新庄一の富豪で、風流の本家)へ招被(まねか)る。 彼是、歌仙一巻有り。盛信。息(子)、塘夕、渋谷仁(甚)兵衛、柳風共。孤松、加藤四良兵衛。如流、今藤彦兵衛。木端、小村善衛門。風流、渋谷甚兵(衛)へ。

三日: 天気吉。 新庄を立つ。一里半、本合海(もとあいかい)。次良兵(船宿)へ方へ甚兵へ方より状添る。大石田平右衛門方よりも状遣わす。船、才覚して乗する(合海より禅僧二人同船、清川にて別る。毒海ちなみ有り)一里半、古口へ舟着る。是又、平七(現:古口)方へ新庄・甚兵より状添る。関所、出手形、新庄より持参。平七子、呼四良、番所へ持行。舟つぎて、三里半、清川に至る。酒井左衛門(鶴岡藩主)殿領也。 此の間に仙人堂・白糸の瀧右の方に有り。平七より状添方の名を忘れたり。状添えずして番所有りて、船より上げず。一里半、雁川、三里半、羽黒・手向(とうげ)荒町。申の刻、近藤左吉(手向村の染物業。俳号:露丸)の宅に着く。

「曾良俳諧書留」より:
  新庄:
御尋に 我宿せばし 破れ蚊や  風流
はじめてかほる 風の薫物  芭蕉
菊作り 鍬に薄(すすき)を 折添て  孤松
霧立かくす 虹のもとすゑ  曾良
  その他・・・

  風流亭:
水の奥 氷室尋る 柳哉  翁
ひるがほかヽる 橋のふせ芝  風流
風渡る 的の変矢に 鳩鳴て  曾良

  盛信亭:
風の香も 南に近し 最上川  翁
小家の軒を洗ふ夕立  (息)柳風
物もなく 麓は霧に 埋て  木端


0 件のコメント:

コメントを投稿