2014年10月15日水曜日

46. 越中・那古の浦(七月十四日)

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【現代読み】
黒部(くろべ)四十八(しじゅうはち)が瀬(せ)とかや、
数知らぬ川を渡りて、 
那古(なご)と云う浦(うら)に出(い)づ。

坦籠(たご)の藤波(ふじなみ)は、 春ならずとも、
初秋(はつあき)の哀(あわ)れ 訪(と)ふべきものを と、
人に尋(たず)ぬれば、

「是(これ)より五里 磯伝(いそづた)いして、 
向こうの山陰(やまかげ)に入(い)り、
(あま)の笘葺(とまぶ)き かすかなれば、 
(あし)の一夜(ひとよ)の宿 貸す者あるまじ」 

と云い脅(おど)されて、 加賀(かが)の国に入(い)る。

 早稲(わせ)の香や 分け入る右は 有磯海(ありそうみ)

【語句】
黒部四十八が瀬: 全国有数の急流である黒部川は、かつて扇状地を幾重にも川筋が分かれていたことからそう呼ばれ、難所としても知られていた。→ 黒部川の歴史

那古(なご)と云う浦: 富山湾に面した現在の射水市(いみずし)の海岸線。奈呉の浦 とも。歌枕になっていて、
 『東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の 釣する小舟(をぶね)漕ぎ隠る見ゆ』(「万葉集十七」 大伴家持

坦籠(たご)の藤波(ふじなみ): 「坦籠(たご)」も歌枕で、
 『多祜の浦の 底さへ匂ふ藤波を かざして行かむ 見ぬ人のため』(「万葉集」十九)
藤波を詠んだ歌には大伴家持(おおとものやかもち)の句もあって、
 『藤波の 影なす海の底清み 沈(しず)く石をも 珠とぞ我が見る』(「万葉集」十九)
 (※万葉集は万葉仮名で「藤奈美能 影成海之底清美 之都久石乎毛 珠等曽吾見流」と書かれていたので、現代表記とは少し違い、地名の表記もまちまちである)

「坦籠(たご)」は現在の富山県氷見市に「田子浦藤波神社」があって、その辺りとされる。 その近くには「多胡神社」というのもあり、地図で見ると那古からそう遠くないのだが、「脅し」が効いたのでしょう。

云い脅されて、加賀の国に入る: 芭蕉は結局、奈呉から少し南下してその日は高岡に泊り、翌日から金沢に一週間ほど滞在し、能登の方へは行っていない。
早稲(わせ)の香や: 黒部四十八が瀬を渡ったのが七月十三日、氷見の方へ行こうとしたのが十四日で(現在なら8月28日)、早い所なら稲穂が実り始める頃。
有磯海(ありそうみ): 同じ富山湾でも、奈呉の浦より西側の、氷見寄りの海岸線をそう呼ぶらしい。 芭蕉はそちらへは行かず、左の金沢方面への道を南下するのである。

  「曾良・旅日記」
七月十三日(現在の8月27日): 市振立つ。虹立つ(「泊にて」を抹消)。玉木村(現:青海町内)、市振より十四・十五丁有り。越中・越後の堺、川有り。渡て越中方、堺村(現:朝日町内)と云う。加賀の番所有り。出手形入るの由。
泊(同:朝日町内)に至りて越中の名所少々覚ゆる者有り。入善(現:入善町)に至りて馬なし。 人雇いて荷を持たせ、黒部川を越す。雨続く時は山の方を廻るべし。橋(愛本)有り。壱里半の廻り坂有り。
昼過ぎ、雨為降(あめふらんとして)晴る。申の下刻(午後五時半前後)滑川に着き、宿。暑気甚し。

十四日: 快晴。暑さ甚だし。富山(現:富山市)かからずして(滑川一里程来て、渡りて富山へ別る)三里、東石瀬野(渡し有り。大川〈神通川〉)四里半、放生津(渡り有り。甚だ大川〈庄川〉也。半里計り)。
氷見(ひみ)へ欲行(ゆかんとほっし)て、不往(ゆかず)。高岡(現:富山県高岡市)へ出る。二里也。
那古・二上山(高岡より少し北にある丘で、歌枕。「坦籠の藤波」はその先)・石瀬野(いわせの:歌枕)等を見る。
高岡に申の上刻(午後四時前後)、着て宿。翁、気色不勝(すぐれず)。暑さ極て甚し。●●同然(この箇所難読)。

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