2014年10月13日月曜日

48. 多太神社(七月二十五日)

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【現代読み】
此の所 多太(ただ)の神社に詣(もう)ず。
実盛(さねもり)が甲(かぶと) (にしき)の切れあり。
往昔(そのかみ) 源氏に属せし時、
義朝(よしとも)公より賜(たま)わらせ給(たま)うとかや。
げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。
目庇(まびさし)より吹返(ふきがえ)しまで、
菊唐草(きくからくさ)の彫りもの 金(こがね)を散りばめ、
龍頭(たつがしら)に鍬形(くわがた)打ったり。

実盛(さねもり)討死(うちじに)の後(のち)、
木曽義仲(きそ・よしなか) 願状(がんじょう)に添えて
この社(やしろ)に こめられ侍(はべ)るよし、
樋口(ひぐち)の次郎が使いせし事共(ことども)、
目のあたり 縁起(えんぎ)に見えたり。

 むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす

【語句】
多太(ただ)神社: 石川県小松市にある神社。「太田」、「多田」など、表記が異なる。
実盛(さねもり): 斎藤 実盛(さいとう さねもり)は平安末期の武将。木曽義仲討伐のため、白髪を黒く染めて出陣し、孤軍奮闘して討ち取られる。 その木曽義仲こそ、幼少の頃に実盛から命を助けられた駒王丸の成長した姿であった。

義朝(よしとも)公: 源 義朝(みなもと の よしとも)のこと。実盛は最初「義朝」に従い、その後「義朝」の弟の源 義賢(みなもと の よしかた)の側につくが、それによって義賢は討ち取られてしまう。 再び義朝の麾下に戻った実朝だが、義賢(よしかた)に対する恩義も忘れておらず、義賢の子の駒王丸(のちの木曽義仲)を乳母のもとに送り届けた。

目庇: 兜の前の庇(ひさし)の部分。
吹返し: 耳の辺りで後方に反り返っている部分。
龍頭: 兜前面の飾り。
鍬形: 兜の前立物。 二本で対になっている。→ 

実盛討死の後: 実盛の首は白髪を染めていたので最初は誰だか分からなかったが、そのことを樋口 兼光(ひぐち かねみつ)から聞いた木曽義仲が近くの池で首を洗わせたところ、みるみる白髪に変わったので実盛であることが分かり、それがかつての恩人であることを知った義仲は、人目もはばからずに泣いたという。
樋口の次郎: 樋口 兼光(ひぐち・かねみつ)のこと。 木曽義仲の乳母子として義仲と共に育てられた、義仲四天王の一人。実盛の首を検分した際、一目見て涙を流し「あな、無残やな。斉藤別当(実盛)にて候ひけるぞや」(謡曲「実盛」)と言ったとある。

きりぎりす: 五文字で語呂が良いから「きりぎりす」となっているが、現代ではコオロギの鳴き声という解釈が一般的。

  「曾良・旅日記」
七月廿四日: 申の上刻(午後三時半頃)、小松に着く。 竹意同道故、近江屋と云ふに宿す。北枝、随之(これにしたがふ)。夜中、雨降る。

廿五日(現在の9月8日): 小松を立たんと欲す。所衆聞て、北枝を以(もっ)て留(とど)む。立松寺(建聖寺)へ移る。 多田八幡へ詣でて、実盛が甲冑・木曽(義仲)願書を拝む。終て山王神主・藤村伊豆宅へ行く。会有り(「しほらしき名や」を発句とする十吟の会:前章)。終て此に宿す。申の刻(午後四時半頃)より雨降り、夕方止む。夜中、折々降る。

廿六日: 朝止て己の刻(午前九時半頃)より風雨甚し。今日は歓生(越前屋宗右衛門。別号:享子)方へ招被(まねか)る。申の刻(午後四時半頃)より晴。 夜に入て、俳、五十句(前章参照)。終て帰る。庚申(庚申待:前出)也。

廿七日: 快晴。(此の)所の諏訪宮祭の由、聞て詣ず。己の上刻(午前八時半頃)、立つ。斧卜(とぼく)・志格等来て留めると云えども、立つ。伊豆尽甚持賞(もてな)す。八幡へ奉納の句有り。実盛が句(「むざんやな」の句)也。 予、北枝、随之(これにしたがふ)。
 「あなむざんや かぶとの下の きりぎりす  芭蕉」
 「幾秋か 甲(かぶと)にきえぬ 鬢(びん)の霜  曾良」
 「くさずりの うら珍しや 秋の風  北枝」

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