2014年10月7日火曜日

54. 天龍寺・永平寺

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【現代読み】
丸岡(まるおか)天龍寺(てんりゅうじ)の長老、 古き因(ちなみ)あれば尋(たず)ぬ。
また金沢の北枝(ほくし)と云う者、
仮初(かりそ)めに見送りて この所まで慕(した)い来(きた)る。
所々(ところどころ)の風景 過(す)ぐさず思い続けて、
折節(おりふし) あわれなる作意など聞こゆ。
今既に別れに臨(のぞ)みて、

 物書きて 扇(おうぎ)引き裂く 余波(なごり)かな

五十町 山に入(い)りて、 永平寺(えいへいじ)を礼(らい)す。
道元禅師(どうげん・ぜんじ)の御寺(みてら)なり。 
邦畿(ほうき)千里を避けて、 
かゝる山陰(やまかげ)に 跡を残し給(たま)うも、 
(とうと)きゆえ ありとかや。

【語句】
丸岡 天龍寺: 清涼山・天龍寺。 「丸岡」は「松岡」の誤記。 この後に訪ねる永平寺の末寺。
長老: 大夢和尚のこと。 もとは江戸品川天龍寺の住職だった人。

金沢の北枝(ほくし): 立花氏。通称、「研屋・源四郎」。 
「曾良・旅日記」では、七月十五日に金沢入りした日に北枝の兄・牧童(研屋・彦三郎)と逢っており、翌日に「宮竹屋喜左衛門方へ移る。段々各来る。謁す。」―とあるから、その頃に出会ったものと思われる。「北枝」の名が曾良の日記に出てくるのは二十一日で、その後、山中温泉や那谷寺へも同行し、ここまで慕ってついて来たものと思われる。
(この日は八月九日か十日前後だから、三週間くらい随行していたことになる)
芭蕉との出会いを機に、兄の牧童と共に芭蕉門下となり、加賀蕉門の中心的人物となった。蕉門十哲の一人で、芭蕉の言葉を書き残している。

扇引き裂く: この日が八月九日だとすると、現在の9月22日頃になり、そろそろ扇子の要らなくなる頃。 捨て扇なら秋の季語になるが、実際に扇を引き裂いた訳ではなく、別れの句を書いた扇子を北枝はもらっている。
北枝の「卯辰集」にある、 『もの書て 扇子へぎ分(わく)る 別哉』 ―が初案らしく、「松岡にて翁に別れ侍(はべり)し時、扇に書て給(たまは)る」と前書きがある。

『此の真蹟の扇面、今大阪一鼠(いっそ)所持す。此の時、北枝は越前・細呂木(ほそろぎ)駅と金沢町との間、娵落(よめおとし)と云う所の茶店まで翁を送り来ると云い伝う』(菅菰抄・付録)
『扇の一章は賀府の北枝が山中の見おくりに、橘(「立花」は北枝の姓)の茶店にてそれが扇に書きてたびけるよし、今も金城の家珍に伝へしが、「扇へぎ分くる別れかな」とあり』(「古今抄」支考)

五十町 山に入りて: 一町は110m.ほどだから、5キロ半ほど山に向かい、また戻ったことになる。
永平寺: 大本山・永平寺。曹洞宗の開祖・道元禅師が寛元2年(1244)年開いた坐禅の修行道場。 
道元禅師: 鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖。

邦畿(ほうき)千里を避け: 「邦畿」は『詩経』に、「維(そ)れ民の止(とど)まる所」とあり、 「帝都」という意味で、繁華な都を避けたということ。
貴きゆえあり: 『初め寺地を京師にて給らんと有しを、(道元)禅師の云う、「寺堂を繁華の地に営ては、末世に至り、僧徒或は塵俗に堕する者あらん歟(か)」、と固く辞して、終(つい)に越前に建立すと云う。』(「奥の細道・菅菰抄」)




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