2014年10月1日水曜日

60. 大垣(八月二十日~九月六日)

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【現代読み】
露通(ろつう)も此の港まで 出迎えて、
美濃(みの)の国へと伴(ともな)う。

(こま)に助けられて 大垣(おおがき)の庄に入れば、
曾良も伊勢より来たり合い、
越人(えつじん)も馬を飛ばせて、
如行(じょこう)が家に入り集まる。
前川子(ぜんせんし)・荊口(けいこう)父子、 
その外
(ほか)親しき人々 日夜 訪(とぶら)いて、
蘇生(そせい)の者に会うが如(ごと)く、
(か)つ悦び、 且つ労(いた)わる。

旅の物憂(ものう)さも いまだ止(や)まざるに、
長月(ながつき)六日(むいか)になれば
伊勢の遷宮(せんぐう) (おが)まんと、 また舟に乗りて、

 (はまぐり)の ふたみにわかれ 行く秋ぞ

【語句】
露通(ろつう): 蕉門俳人で、路通とも。斎部伊紀。
此の港: 芭蕉はまだ敦賀の港にいる。
美濃の国: 今の岐阜県南部。 福井の敦賀からだと、滋賀の琵琶湖近くを通り、関が原辺りから岐阜となって、目的地の大垣はその先になる。
駒に助けられ: 馬に乗って、ということ。
大垣の庄: 現在の岐阜県大垣市。 門弟:如行(じょこう)の家があった。

曾良も伊勢より来たり: 芭蕉は八月二十日頃に大垣入りしているが、曾良は旅日記によると九月二日に伊勢・長島を発って、翌三日に大垣に着いているから、ここではかなりの日数を飛ばしていることになる。 
曾良の旅日記では芭蕉より一足先の、八月十四日に大垣入りした時に如行を訪ねているが、その日は留守で逢えず、如行の子息に止められて一宿している。 その翌日に芭蕉宛ての手紙を残して発っているから、近々芭蕉が立ち寄ることは分かっていたはず。 

越人(えつじん): 越智 越人(おち えつじん)。 名古屋の商人で、尾張蕉門の重鎮。 蕉門十哲の一人でもある。
如行(じょこう): 近藤氏。 元、大垣藩士。  蕉門の俳人で、この人の家に集っている。
前川子(ぜんせんし): 津田氏。「子」は藩の重職に対する敬称。 大垣藩詰め頭。 蕉門の俳人。
荊口(けいこう): 宮崎太左衛門。 大垣藩御広間番。 蕉門の俳人。 三子があり、いずれも蕉門俳人。
「荊口句帳」の「芭蕉翁月一夜十五句」の路通序の日付が「元禄・己巳(つちのと・み)中秋廿一日以来・大垣庄・株瀬川辺」とあるから、芭蕉は八月二十一日(現在の10月4日)には大垣にいたことが分かる。
その外(ほか)親しき人々: 大垣蕉門の、木因、残香、左柳、怒風といった人たち。
蘇生の者: 蘇(よみがえ)った人、生き返った人のこと。

長月六日: 九月六日で、現在の10月18日。
伊勢の遷宮: 伊勢神宮で二十一年目ごとに行われる式年遷宮のこと。 この年は、内宮が九月十日、外宮が十三日に行われた。
蛤の ふたみにわかれ: 蛤は伊勢の名産であり、蛤の「蓋」と「身」が分かれると、伊勢の名勝・二見が浦の「ふたみ」を掛けている。
二見が浦は、かつて伊勢神宮を参拝する人たちが身を清めた場所で、参詣する人たちの宿泊場所としても栄えた名勝。夫婦(めおと)岩などがある。



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